渡邊利一記(昭和十一年十一月二十四日)
五千尺の高さ山また山、峰また峰の相連なる峰、山形県と福島県の境界に杭甲山栗子の峠がある。東は南朝の遺跡霊山と相対し西は月山羽黒湯殿の神山遠く、海島の霊岳晴景と称呼する霊場栗子神社に伝わる物語を書いてみたい。
御説この霊場は何時開かれたかは史文に明らかでない。只伝説としては、紀元七百七十年景行天皇四十年に東夷が叛いた時、天皇は事を皇子、日本武命任と給い、吉備武彦大伴武白を副わしめ幾多の軍兵を率いしめ給い、命は伊勢の国より東海道駿河の国を経て東山道に向かうべく相模の国より海にそそぎ東進せられた時、風涛に悩み給いし時、皇妃橘姫命海中に御身を投じ海神の怒りを安め給われた。
命は上総御上陸遊ばされ常陸今の磐城の国東白川郡近津柵倉田村郡地方より遂に西吾妻連峰に進み遊ばされた時に、皇妃の薨去せられたことを御偲び遊ばされ遥か東を望み悲しみ給いて吾妻哉と仰せられた。それより命はお心健かならず拝せられた。将兵ら種々相議りその土地の豪族久比詞の女玖理子姫を奉じ朝夕御用に仕ひせしめた。
その頃北の方今の茂庭に大きな蛇がいて良民共を苦しめた事を聞かせられて命は御出遊ばされこれを退治せられた。今の蛇体鉱山のある所という。現在蛇骨の形をした石はたくさん掘り出される。命はお気の毒にも大蛇の悪毒気に当たり御病に罹り御床に臥せられたこと数旬、良民共御徳に報い奉らん為御貢の供物お見舞いに仕り奉げた。今の梨平名号の中間にある初穂塚がその所である。
玖理子姫は命とお別れしてより間もなく皇女を産み奉った。悲しいかな早くも皇女はこの世を御去り遊ばされた。玖理子姫は御生みなされた御屍を懐して命に一目なりとも御目にかけなければと云うて御かくしする状もなかった。それにつけても命を慶慕するの情は日夜充つることなく泣き悲しんだ。遂には精神まで異常を変し、皇女の悲しい屍を抱き奉り何所とも知れず命の御後をば慕い追い奉った。然しその時は命は遠くご出発の後であった。
玖理子姫はそのまま山中に籠もりて家には帰らなかった。父の久比詞は皇女と娘の後を尋ね尋ねて一年余り山また谷を迷い廻り遂にこの杭甲山にて再会したがそれ又玖理子姫と共に郷里に戻らずこの山中で終わりを告げたのである。郷人相憐んでその山に一社を建て栗子の祠と四時お祭りしたと云い伝えられてある。久比詞は後世杭甲と書くようになった。また交通路の開けてより栗子峠と呼称するに至った。
その後大同より承和の頃とかや(欄外:空海大同七年高野山金剛峰寺を開き承和二年寂)撮上山に十二僧坊杭甲山に八坊の僧房の六道場を開き西霊寺と号したとも云われる。今に岩堂□塞の河原寺院の旧跡存す。その後南北朝時代北畠家の一族義良親王を奉じて霊山に在り最上の一族西霊に在り共に賊を討つ。義良親王守護仏不動明王は□禅長老の祀る所共に杭甲山にあり、今の長老沢なりとも云い伝ふ。黒巌満願寺虚空蔵尊は源杭甲山西霊寺の本尊仏なりしが何時の頃か還し奉りしともいう。栗子の祠の本体は虚空蔵尊にて、古川某尊信して古川善兵衛重吉という大偉人を生む。重吉又守本尊虚空蔵尊を信じ大工事を遂行したと言われてある。
山形県令三島通庸氏、福島県令山吉盛典氏相議り刈安村より福島町に至る交通路を開通すべく闊議を経て明治九年十二月工事に着手し同十三年十月十九日両端より掘りし燧道に初めて奇声を聞くとこの間実に4年の星霜を経た。明治十四年十月三日畏くも明治天皇東北御巡幸にこの第三十九号国道に萬世大路と名を賜りたり。両県民の光栄たるや思うべし。両県に萬世村萬世町あるもその所以というざるを得ないのである。
同十五年両県有志家相議り栗子神社を建立す。御祭神は云うまでもなく栗子姫命である。尚顕世津御神天皇の御盛徳を仰ぎ奉り御足跡の処をお祀りして千萬歳の御寿を祈り奉り長命の神巌健の神として岩長姫命をも合祀し共に萬世大路の萬世と不朽を祈った事は諸氏の能く知る所である。その社殿間口十五尺奥行九尺の美麗の木造、拝殿別に三尺四方の神床付けたので有ったが、長い年月に敗塔の状見るに忍びず、昭和十一年十月二十六日遂に焼却し、同十一月十七日大石宮を以って再興し鎮座祭を行う次第である。(句読点は梅津幸保)