斎藤 篤信 さいとう あつのぶ
教育者、山形県第10区(米沢)区長、山形師範学校初代校長
篤信は文政8年(1825)米沢市花岡町(現城南2丁目)に生まれる。父は庸信(つねのぶ)で上杉斉憲(米沢12代藩主)の近侍頭として藩主を補佐していた。篤信は幼少の時から勉学を好み少年時代にはすでに儒学に長じていたと言われ、書にも精進した。
嘉永3年(1850)25歳で藩校興譲館の助読(現助教授)となった。文久元年(1861)36歳で糠野目の砦将、同3年(1863)39歳で高畠砦将を勤めた。当時屋代郷は藩領、幕領の繰り返しで騒然としており、鎮撫の命を受け難しい砦の守護に当たっていた。慶応元年(1865)には藩主上杉斉憲(なりのり)の奥取次となって藩主の側近として仕えました。慶応4年(1868)の戊辰戦争では甘粕継成と共に軍参謀として奥羽列藩同盟の一員として越後に出征して新政府軍と戦って戦功を上げますが、米沢藩は降伏します。敗戦後は奥羽諸藩の戦争終結に奔走し、とりわけ会津降伏の周旋に尽力します。
この間、新政府軍の板垣退助、黒田清隆、西郷隆盛らと面会し、堂々と意見を述べたと伝わります。明治2年(1869)には新政府の待詔院下院に出仕し、明治3年(1870)米沢に戻り藩校で教育に携わります。明治6年廃藩置県後に再び明治政府の教部省で東北諸藩の巡視などを努める。明治9年(1876)教部省を退職すると、旧知であった三島県令から米沢を統括する第10区区長(市長)に任命される。明治12年(1879)、山形師範学校初代校長に任命され明治17年まで務めた。退職後は文部省御用係や学習院教授補を歴任する。米沢では「とくしん先生」として親しまれ、明治24年(1891)67歳で亡くなった。菩提寺は米沢市城南の常安寺。
萬世大路の建設にあたっては、地元負担として人夫の強制割り当てには住民からの不平の声が上がるのは当然で、有志社の五十嵐・丸山が建白書を出した。三島はルートを変更することとしたが、斎藤区長が変更については、いつまでも米沢は陸の孤島になると了承せず、明日人夫500人を出すことで現ルートを推進した。又、斎藤区長は明治11年(1878)三島県令に新道の名称を教書の「萬世永頼」から採って「萬世新道」とするよう請願しているから「萬世大路」の名称も或いは斎藤の上申を参考にしたのかもしれないと米沢市史近代編で記している。(参照:米沢人国記、米沢市史近代編)(顔写真は私立米沢図書館蔵)
柴山 景綱 しばやま かげつな
天保六年十一月十一日(1835.12.30)~明治四十四年(1911)九月六日没
那須塩原市三島にある三島神社に建つ柴山景綱の頌徳碑を郷土史家が調査。
平成二十八年十月九日 大田原市文化財保護審議会会長 大沼美雄訳
柴山景綱は三島通庸の妻の兄で、三島とは幼い頃から行動を共にした人物です。大沼さんの訳文を要約して紹介いたします。
柴山翁之碑 訳文
訳文要約:金子利貞
従五位勲六等柴山景綱君は鹿児島藩士で、名は龍五郎(りゅうごろう)。父親の影秀は権助と名乗って武術では有名であった。柴山は影秀の長男で、藩に仕え久光公の定供や御徒目附を務め早くから勤王の志を抱いていた。寺田屋騒動の時には志士と共にいて、鎮撫使の奈良原繁・大山綱良ら八名の思いが伝わらず双方共倒れの危機が迫る中、柴山の力に任せたために大事に至らなかった。禁門の変で長州藩兵が御所を攻撃した際には、鹿児島藩兵を連れて篠原国幹や桐野利秋たちと蛤御門に馳せて賊兵を打ち破った。明治になると軍服を脱ぎ鹿児島で農作業に勤しんだ。明治五年に陸軍大将西郷隆盛の推薦で翌明治六年一月に兵部省に十等出仕入省し、三月に陸軍省に十等出仕入省したが、幾日もたたないうちに病気を理由に辞職して元の生活に戻る。その後明治八年に警視庁八等出仕し、一等大警部にまで昇進。明治十年二月に西南戦争が起き、自身を遺憾に思う所があって病気となり警視庁を辞職。その後、山形・福島両県の郡長を歴任し、道路を開鑿したり役所を建てたり、学校建設に尽力し、民間事業を後押しするなど功績を遺した。また私費を投じて公事業を援助し、私財が傾きかけても一向に気にも止めなかった。明治十九年に警視庁二等警視として入庁。この時期に警視総監だった三島通庸を補佐して大いに功績あり。明治二十三年に宮内省御料局技師、同日付けで三重県度会事務所長となる。明治二十五年に辞職して小田原で過ごす。明治三十一年に子爵三島弥太郎(甥)から三島村の開墾事業監督の依頼があって引き受け、十数年間も村民に忠孝節義を説きながら勤勉を尽くす。若い頃から読書を好み、「道」については非常に大切なものがあり尊いとしていた。経典や中国の地歴書を調べ読み、自ら執筆完成した書物は百巻以上。明治四十四年九月六日に三島村で病死。享年七十七。柴山の病状は政府に伝わり従五位に一階級位階が上げられた。清廉潔白で名誉利益を追わなかった、特に三島村の大恩人である彼の生涯と功績を明白にしておくべきと有志たちが相談し、記念碑を建てる事にした。「銘」の言葉は次のとおり。
那須の山、その山の石は沢山あり積み重なっている。石斧で切り出して記念碑の石とし、それに國中村中で一番の男だった柴山のことを「銘」として刻みつける。全ての人々が柴山君のことを慕い仰ぎ、それが止まらないように。
高木 秀明 たかぎ ひであきら
天保2年辛夘 (1831.10.16)~明治36年癸卯4月1日(1903.4.1))
大河の会 金子 利貞
今回は、栗子隧道の総責任者で山形県土木課長の重責を担った、高木秀明(たかぎひであきら)についてご紹介します。なお、三島通庸の生年月日は天保6年6月1日(1835.6.26)で、高木秀明の4歳年下となります。
『三島県令大河の会』の発足準備が始まった令和3年1月26日に、山形県寒河江市にある県史資料室で高木秀明の経歴に関する資料を閲覧撮影させていただきました。以下、読下したものをさらに簡略にして年表としたものです。
経 歴
天保二年(1831.10.16)九月十一日【1歳】
鹿児島上荒田村に生まれる。幼名は助次郎
嘉永元年(1848)【17歳】
秋から中村製薬館で分理学を学ぶ。
嘉永三年(1850)【19歳】
三月、兄の秀幸が没して、兄の嫡子となり孫左衛門と改名。当時流行の西洋砲術を学ぶ
安政二年(1854)【23歳】
春、斉彬公の参勤の折に御供で江戸へ、神奈川沖のアメリカ使節ペリー艦隊滞艦を見る、
江戸に着くと直ちに大木仲益(坪井為春)の塾に入って洋学を学ぶ
十月二日午後10時ごろに安政江戸大地震(1855.11.11)、M7クラスの地震
安政五年(1857)【26歳】
春、井伊大老になると幕政はやや不穏、将軍家定公は七月八日江戸城にて逝去
七月二十日斉彬公は鹿児島で御逝去
この冬に我は誤れる事あって国に帰される
安政六年(1858)【27歳】
一月奄美大島に流される菊池源吾(藩は西郷隆盛を変名)に会う
私は始めて牛肉を食べた、菊池は牛肉の味は如何かそして遠からず大津あたりの大きな牛を殺してその肉を食べて兵を揚げ錦の旗を翻えす、その時の愉快を思うべしと
その後私は大和濱村に行って居し、その後宇檢村に移住した、共に港湾があった
同じ頃に、重野安繹(文政10年10月(1827.11.24) 鹿児島近在坂元村生まれ。天保10年18歳に同僚による金の使い込みで奄美に遠島処分中西郷隆盛に会う。6年後赦免帰国。漢学者、歴史家、日本歴史学研究の泰斗。三島通庸神道碑撰文。)は瀬名村に居た
文久二年(1862)【31歳】
八月に父が逝去したと冬に伝わって来る
文久三年(1863)【32歳】
夏にイギリス艦船が鹿児島に来て乱暴する(
冬、帰国すべきと申し来る、相續を同日に被命される
元治元年(1864)【33歳】
三月廿一日に鹿児島に帰る
翌廿二日に薩・隅・日の三ケ国実測図作成と地誌の取調の命があり
慶応四年(1868)【37歳】
戊辰戦争の時は隣藩髙鍋・延岡・肥後人吉迄巡廻
奥羽戦争に赴かん事を計るが未だ図の不成を以て不許
東京海軍省から出京申来るも不許
明治五年(1872)【41歳】
三月に図の完成後四月に出京、原本は正院編集局で皇城火災の節に消失のため、鹿児島に残していた写を編集局へ出す
四月任東京府曲權典事建築掛となり、銀座通りに煉瓦の家屋を作る
五月編集掛専務となり東京市街其他の地券発行に付いて取調実測に関係した
六月任東京府典事營繕掛兼務となる
明治六年(1873)【42歳】
玉川上水の事に付いて関係あり、八月に任東京府大屬
明治九年(1876)【45歳】
八月に補鶴岡縣九等出仕
九月に補山形縣九等出仕
山形から福島に通ずる新道路線を求めた
縣内より三方に向って新道を作るが、その内福島に通ずるものが最も難工事だった
十一月任山形縣權大属となる
栗子隧道に着手するが難工事、隧道長さ四百八十間
明治十一年(1878)【47歳】
一月に任山形縣三等属
五月に任山形縣二等屬,
隧道開鑿の為め米国に穿坑器を購求
明治十二年(1879)【48歳】
七月に土木課長となる
八月に一等屬となる
明治十三年(1880)【49歳】
七月四日鑿声を聞く((残壁六十間)
測量を固守して響を省みず工を進め、十月十九日遂に貫通
工夫皆が喜び共賀、三島縣令の和歌
『ぬけたりと呼ふ一声に夢さめて 通ふもうれし穴の初風』
十月に銀盃一個と金百円下賜
明治十四年(1881)【50歳】
十月二日に栗子隧道工事格別勉励候に付き賞金百円下賜
十月三日に縣令と供に先道燈火を篝りて供奏する
十月十二日職務格別勉励に付き慰労金六拾円下賜、白縮緬二匹賞典される
明治十八年(1885)【54歳】
八月に任福島縣屬第ニ土木課長となる
明治十九年(1886)【55歳】
八月に任福島縣伊達郡長奏任官五等賜上給俸となる
十一月に叙従七位
明治二十一年(1888)【57歳】
十二月に地押事業格別勉励候に付き賞金四拾円下賜
明治二十二年(1889)【58歳】
十一月に任静岡縣君澤田方郡長となる
養蚕・製絲・真綿等の産業に最も力を尽くす
明治二十三年(1890)【59歳】
十二月階叙奏任官四等
明治二十五年(1892)【61歳】
三月叙正七位
明治二十六年(1893)【62歳】
四月非職
十月依願免本官後に同郡一町田の邸に於て老を養う
同年月病を得る
明治三十六年(1903)【72歳】
四月一日に卒す
時に歳七十三
一町田の地に葬った後に青山に改葬
妻は鹿児島県士族山本五百助長女、海軍大将山本権兵衛の姉で加衛と称す、内助大いにつとめ嫡子と共に天草の地に来り。下町の地において病を得、明治41年8月29日卒す、火葬して同9月青山に葬る、二男三女あり、うち一男早世す