栗子国道維持出張所にあったものを平成30年4月20日にオープンした道の駅米沢に移設しました。

栗子隧道碑記は、明治期の栗子山隧道工事に関して記されたものです。

「栗子隧道碑記」は明治15年1月に建立されたもので、栗子山隧道建設当時の三島県令のリーダーシップや住民の動き等が記載されています。(1,718字)

原文 (表)

山形縣令三島君之始拜官也大久保内務卿召問其施設方略君對以七事而修道路為首曰本県人民口猶屏障室内而居不知障外況戸外乎不蚤袪此蔽則人智不開物産不興治不可得而施内務卿可之盖山形在岩陸羽越之交界挙目皆崇巒峻嶺阪路険悪嘉之気候厳寒積雪或至六七丈牛馬往来□在夏秋之間曩時候伯国其間者恃以為天険不敢有剷夷以故風気不通民俗固陋窒滞故君之言及此君既赴任所則集諸属官諭以前意且曰自置賜赴福島踰板谷之険即南方官道通上國者而積雪深阻運輸特難宣別開一路聞昔者上杉代臣直江兼続欲通新道而不果其方位在赤濱刈安二村之間遣高木秀明往検秀明抵二村遍索不得乃自刈安而登有一山屹然当前曰栗子山為山形福島縣界峻絶不可路以謂羽越通岩陸有大山脉劃断非穿其山腹則不可因建隧道之議衆多難之県令曰吾縣四塞雖管内難相通故余月山且欲穴其腹何有於栗子乎月山者両羽之巨鎮也乃移牒福島縣協議申請得允以明治九年十二月起工先鑒一隧於刈安村長三十五間二月而成而栗子之隧則全山皆磐石関鑒綦難且入地漸深空気不通縣令乃購穿坑機器於米国一器之功敵坑夫二十人引空気転器畢則空気散坑中初穿隧自西方至是轉東方而用機器於西方自是二方竸進然一日所穿猶不過数寸積二歳餘隧中互聞鏨鑿之響衆始知相距近得氣而進縣令親□督工夜半忽有大呼者曰兌矣一坑夫疾走来報也皆葡匐注視則西鏨與東鑿相交衆抃躍不己呼聲満隧中實十三年十月十九日也隧長四百八十二間高二間廣三間東西相合不差尺寸人乃服測算之至精與工事之能謹也盖従米澤歴刈安至栗子約五里瀧之澤在其半道従瀧之澤登隧口直立百三十五間比之舊道板谷地勢卻高而斫巖棧澗磬折蛇行人車平穏不覚其高稱之曰刈安新道十四年  車駕北巡至山形十月三日由隧道赴福島是日行開道儀賜金百圓   上既還京 勅襃山形縣内修路諸事周到賜縣令銅花瓶一雙又賞米澤以南新道開鑿之功賜錦一巻遂賜隧道名曰萬世大路盖取尚書萬世永頼惟汝功之語也隧道之工殆五周歳而全竣工費金拾貮萬六千九百餘圓其三萬千九百餘圓官帑助之故米澤藩知事上杉茂憲其舊臣宮島誠一郎等及縣官吏助役者凡一萬五千餘工其餘皆課於民工既成竉□層畳人皆以之多縣令縣令曰   聖明在上凡所利國家何為而弗成且工事則僚属任之費用則官民給之餘何功之有但起工未幾訛言紛興殆動朝議此為一大難事耳初縣令

訳文 (表)

三島君が始めて山形県令に任ぜられた時、大久保内務卿が三島君を呼んで、山形県令としての政策方針を訊ね三島君に向って七項目の施政方策を授けて、そのうち道路改修を行なうのが第一番目であると言った。本県の人民はまわりを切り立ったような険しい山にかこまれたその中に住んでいて、県外の事はわからず、まして国外のことなどなおのことである。このため道理をおおいかくして、知識もすすまず、産業も起こらず、治めて行くことは困難である。そこでこの工事を施工することを内務卿が許可した。そもそも山形県は岩代(福島県)、陸前(宮城県)、羽後(秋田県)、越後(新潟県)の中間に位置していて、周囲を見回せば高い峰々を仰ぎ見て、道は険しい急坂悪路だけである。そのうえ気候は寒く時には積雪が丈余にもなる。牛馬の往来もわずかに夏から秋までの間だけで、昔は諸大名がこの山岳を自然の防壁と考え、岩山をけずって良道をつくる事をわざと行なわなかった。だから他国との文物思想の交流はなく、住民はがん固で考え方が狭く因習に閉じこもっている。だから三島君の指摘したのはこれである。三島君が山形県に赴任してまず行なったのは、県庁の役人を集めて前述の事情を訓示して、そして又言うのには、置賜から福島へ行くには板谷の険しい峠を越えて南方の国道に出て都の方へ出るには雪が深く物資の輸送が困難であり、別途に新道をつくるのがむずかしいと聞いている。昔、上杉氏の家臣直江兼続が新道を作ろうとして果さなかった。その道筋は赤浜刈安の二村の間にあって、属官の高木秀明を調査に派遣した。秀明は二村に行って踏査し検討したが道路を通し得るルートが出来ないことがわかった。そこで刈安から登った所に 一つの山が大きくそびえている。これが栗子山と言って福島、山形県界をなしており、険しくて歩くことも出来ない。そこで考えるのに山腹にトンネルを掘る以外には道は通せない。 そこでトンネル掘削の件をはかったが役人の多くがそれはむずかしくて出来ないと言った。三島県令はそこで言った。我が山形県は四方が山でふさがれていて管内でさえも交通は不便である。以前に私は月山の山腹にトンネルを掘ろうと思った事があるのに、何んで栗子山で出来ないと言う事があろうか、月山は羽前、羽後両国にまたがる大山岳である。そこで福島県に書類を出し協議して政府に申請しその許可を得て、明治9年12月着工して、はじめに刈安村に一つのトンネルを掘った。その長さ35間で2カ月で出来上った。 しかし栗子トンネルは全山が皆な大岩石で開削が困難で、そのうえ坑中にはいるにしたがって空気が通わない。県令はそこで穿坑機器を米国から購入した。この一機の能力は坑夫20人に匹敵し空気を送って器械を回転させ、それで空気が坑中に放出される。初めトンネル西方から掘り出したが(手掘で)、ここで東方からも掘り始め(手掘り)そして機械を西方(山形県側)に使用した。これから、東西両坑口から競争で掘進した。しかし一日の掘進度はなお5、6寸にすぎない。こうして2年余りすぎて坑中でお互いにノミの響きが聞え、皆んなが初めて距離の近いことを知り元気を出して掘り進んだ。県令は自ら現地に出張監督した。夜中に突然大歓声でさけぶ者がある。 それは一坑夫が走って報せに来たもので、皆な腹ばいになって坑にはいって見れば、西からのノミと、東からのノミが相交っているのが見えた。皆んなおどりあがってその歓声が坑中にいっぱいになった。この時が明治13年10 月19日であった。 トンネル延長482間、高さ2間、広(幅)3間、東西からの坑道はわずかの差もなく合致して、人々は測量計算の精密さと工事の出来ばえに感服した。 おもうに米沢から刈安を通って、栗子まで約5里、滝ノ沢はその半ばごろにある。滝ノ沢からトンネル口に登れば、直高135間ある。これを板谷の旧道に比べれば地勢は狭く高く、しかも岩を切り谷に橋をかけ、うねうねと蛇行してゆけば、人も車もなだらかでその高さを感じない位である。これを刈安新道と言った。   明治14年天皇が北国からまわって山形に来られ10月3日に栗子トンネルを通って福島に行かれた。この日に開通式が行なわれて金100円を下賜された。 天皇が東京に帰られてから勅使が来て、山形県内道路改良にあたってすべて行き届いていると報賞されて、県令に銅花瓶一組を下賜された。又米沢以南の新道開削の功績を賞されて錦一巻を下賜され、続いて隧道名を萬世大路と名づけられた。これは尚書の「萬世永頼ニ惟汝功一」の語からとったものである。トンネル工事は5カ年を費して全く竣工した。工費は126,900余円で、そのうち31,900余円は国庫補助で、もと米沢藩知事上杉茂憲と、その旧臣の宮島誠一郎等および県官吏約15,000余人が工事に関係し、その他は皆な住民の負担としてこの大工事が終わった。これは 県令が住民をいつくしむ心のあらわれであるとして住民が県令に感謝した。 県令は言った、これは天皇の御心である。すべて国家の利益となることは、為して出来ないと言う事があろうか、工事は県の役人が担当し、費用は国と往民とで負担するのだから、私に何の功があると言うのか。しかしながら着工して間もないころ根拠もないうわさが乱れとんで、これがため政府決定のこの大工事の取りやめの動きがあった、これこそ一大事である。

原文 (裏)

諭管下以修路之急要而士民頑陋不能暁其意及修刈安道令置賜郡男女助役於是異議始起尋有肥薩之変訛言乗勢滋甚官因権停工役縣令再三上告僅得不廃衆猶囂囂不己内外並攻縣令毅然不動以謂是不可不先破□□者之胆乃架二石橋於刈安新道甃石為橋環以石欄所謂靉靆橋者宏壮雄麗山野之民所未目撃又架木橋凡五其大者一架松川一架羽黒川長各五十間諸橋成民始知修路之便又驚於観美異議漸熄先是荘内三河橋亦成長二百間分為三土石雑築断而又連極為奇観至是闔県工役大略皆成矣栗子隧道成而南境之険平関山新道成而東境之険平三嶺三崎新道成而北境之険平独西境小国道未畢其他猨羽根磐根早阪鳥揚阪在管内最鉅工凡諸道之成皆在五歳聞故栗子之工為之終始焉於是崇巒峻嶺剷為坦途積雪深阻不足復慮諸車過栗子一日至四十両馬十七八匹行旅百十餘人自米澤至福島十二里餘前日由板谷一馬五鞋今則一鞋而足縣内運搬昔時不用車今則諸車至六千三百二十九両商販四通物産益興向之囂囂者嘖嘖稱新道之便縣令乃告僚属以往年所與大久保内務卿言曰吾不早告之諸君者誠恐事若不成誹議必及内務卿夫穴山通道功固難期而異論坌起内務卿亦逝吾故隠忍至今日其成功然後発之鳴呼此可以見縣令用心之深也詳於謀事之始而堅于就功之後断以行之循序而不紊又能任用群材終始無貮所以克成大業是役高木秀明松井篤介畠山融山任工事城親良佐佐木奉光酒井善助任会計中村□重掌測量村上楯朝在縣廰理庶務斎藤篤信毛利元義小倉道策等亦與有力而秀明親良于諸道 工莫不預秀明奔走四方日夜不休五歳如一日尤竭力栗子曰工若不成隧吾葬所也可謂能以縣令之心為心故 車駕臨栗子特賜金百圓其餘各有差起工之初縣令禱成功於受持神至是建祠隧道西口以大久保内務卿及上杉鷹山君配享鷹山君米澤賢侯節用興土産蠶絲之盛冠一方今運輸道開亦所以成君治績故紀之云又属餘紀隧道始末将刻祠不崖腹属吏伊藤十郎平録状来示顧此一役關渉闔縣諸工事凡一縣之栄忰與縣令之進退存亡皆決乎此碑記之文不宣草略乃拠状詮次寧繁而勿殺以告来者 明治十五年一月  陸軍大将兼左大臣二品大勲位熾仁親王篆額 編集副長官従五位重野安繹 撰 正五位日下部東作書   東京    宮亀年刻

訳文 (裏)

はじめに県令が管下の属僚に道路修築の急を要することを訓示したが、しかし士民ががんこで県令の意図するところを悟る事が出来ず、刈安道を修築のために置賜郡の男女に命令して工事をさせた。この時にはじめて反対意見が起こった。続いて肥薩の変(西郷隆盛の反乱事件)があったために流言が勢に乗じてはなはだしかった。その時政府命令で工事を停止させようとしたが、県令が再三上告してようやく工事の中止だけは免かれたが、なお世論はごうごうと不平をならして、内外から攻撃した。(内は庁内の属僚、外は住民)しかし県令は泰然として動じないで、思うにごうごうと言う不平分子の気持を変えるには先手をとる外はないと考え、まず刈安新道に石橋を二箇所架けた。石畳をつんでアーチをつくり、石の欄干をとりつけたいわゆるめがね橋で広く大きく且つ美しく、このあたりの住民のいまだかつて見た事もないものである。また木橋を5カ所架けたが、その大きなものは松川に1カ所、羽黒川に1カ所かけた、橋長は各50間である。これらの橋が出来上ると民衆は、はじめて道路を修築したための便利さを知り、またその立派で美しいのに驚き、不平もだんだんと言わなくなった。先には荘内の三河橋が竣工した。これは延長200間で三ツに分けて出来ていて、土石をまぜて築造し、切れてはつらなり、大変めずらしいながめである。かくして県内の工事の大半が皆んな出来上がった。栗子トンネルが出来て南境の交通路が開け、関山新道が竣工して東境の道路が開け、三崎新道が完成して北境の交通が可能となったが、ただ一つ西境の小国道だけが今もって出来ないだけで、其他猿羽根、磐根、早坂、鳥揚坂は管内にある。最も大きい諸道の工事完成は皆この5カ年間に出来たが、栗子トンネル工事だけはこの期間の初めから終わりまでかかった。 そこで険しい峰を仰いではこれを削り、平坦な道路をつくったので積雪が深くても心配するには及ばなくなった。諸車が栗子を通るものが一日に40両、馬が17、8頭、旅行者が110人余りになった。米沢から福島に行くのに12里余で、以前は板谷経由で行くときは、馬1頭で5足のわらじを要したのが、今は1足で 足りる。県内の貨物運搬も昔は車を使わなかったが、今は諸車を合せて6,329両となって通商販売も自由で物産はますます盛んになり、これに対して今まで、県令を非難した人々も今度は逆に県令をほめそやし、新道の利便をたたえるのである。県令はそこで属僚を集めて、以前に大久保内務卿から言われた事を話し、私がこれを諸君に話すのは早くはないかと恐れていた。この事業が若しも不成功に終ったならば、この非難のほこ先は必ず内務卿に及んだであろう。山にトンネルを掘り道路を通すことが成功するかしないかは容易な事ではない。だから反対意見が起こるであろうとは覚悟していた。内務卿も又なくなられた。だから私は今まで我慢していたが、ようやくその完成を見たのではじめて之を言うのである。鳴呼とためいきをした。これでいかに県令が深謀遠慮であったかを思うべきである。詳細な計画を初めにして工事に着手してからは絶対に止まることなく、計画の順序にしたがってみだれる事なく、又、よく能力ある人々を適材適所に任用して始めから終わりまで、当初の方針をまげずにやったことがこの大事業を完成させたわけである。高木秀明、松井篤介、畠山融山を工事の責任者とし、城親良、佐々木奉光、酒井善助を会計係とし、中村章重は測量設計係として、村上楯朝は県庁内にいて庶務を担当し、斎藤篤信、毛利元義、小倉道栄等も又それぞれ協力した。そして工事責任者の高木秀明と会計の城親良は各所の道路工事に関係しないものはなかった。秀明は四方に奔走して昼も夜も休まず5カ年間も一日のようである。そのうち最も努力したのは栗子トンネルであった。そして秀明の言うのには、もしも工事が完成しなかったならばトンネルは我が骨を葬むる墓所であると。よく県令の心をもって我が心としたと言うべきであろう。 明治天皇が栗子に来られた時、秀明に百円を下賜された。その他の人々にも少しずつ下賜金があった。起工のとき県令は工事の成功を受持神(保食神すなわち五穀をつかさどる神)に祈願したが、竣工後トンネル西口にほこらを建てて、大久保内務卿および上杉鷹山君の霊をまつった。鷹山君は米沢の賢い城主で、節約を旨とし土地の産業を起こし、蚕糸業の盛んな事は羽州で一番である。今その輸送の道路が開通したのもまた鷹山君の治績がもたらしたものである。だからこれを祭るという。又私にトンネルの顛末を記録するよう委嘱され、いまその碑を建てようとしている。属吏伊藤十郎平に命じ、詳しく状況を記録して来たのである。 振り返って見るに、このトンネル工事は広く県下の諸工事に関連がある。およそ一県が栄えるか、衰えるかは県令の行動とともに存亡はみな県令次第できまるものである。この碑記の文章は取捨選択がまづく、すなわちまず記録によって文章を書き、その後に手を入れたものだから、繁雑すぎて後からこれを読む人の興をそぐことのないことを願うものである。